昭和43年7月5日 夜の御理解
今朝の御理解の、御理解第61節の内容を何時も頂くのでございますけれども、今まであんまり、全然問題にされなかった一番最後のところを、今日は御理解頂きましたですね。
一番最後の、「神より上になるとは思うな」というところですね。神、まぁ(きょう?)読んでみましょうかね。「神より金光大神に、いつまでも尽きぬおかげを話にして、残しておくのぞ。信心しておかげを受けたら、神心となりて人に丁寧に話をしてゆくのが、真の道をふんでゆくのぞ」と。
あの真の道を踏んでいくと行くというようなことは、そのようなことなんです。こりゃ私、この思うこと、最近思うことはですね、もう金光様のご信心、ご信者である私共はもう、金光様のみ教えを本当に頂き、それを行じていく以外にないようです。
もうここに極まっている。ですからどんなに、素晴らしいその、お話がありましてもですね、それは何かこう(えんのと?)良いものに感ずるようになりましたですね、私は。ですから、立派な人間にならせて下さいといったようなことではなくて、どうぞ良い天地の親神様の、いわゆる金光大神の良い氏子にならせて下さいという、と言うことを最近私は申しておりますようにね。
それもやはりあの、教祖の教えられたそのみ教えを本気に取り組むということだと思うんですよ。ですから、真の道、真の道とこういうなら、真の道というのは、神より金光大神に何時までも尽きぬおかげを話にして残しておく、と仰って。
その話を自分が頂いて、そしておかげを受けたら今度は自分が神心となりて、それを丁寧に人に話していくのが、真の道を踏んでいくのぞとこう。ですから、又それから金光大神の教えたことを違わぬように人へ伝えて、真の信心をさせるのが、今度は神へのお礼ぞとこう。
これはもう次の信心になって来るですね。ですから、相手が聞こうが聞くまいが、その自分の頂いたことを話にして、一生懸命いくということ。それはもう真の道を踏んでおるわけです。
今日私はあの、幾人の方から、昨日は久留米の共励会でした。久留米の共励会のその中であの、久富勇さんのお話を非常に有り難く思うたと、いうてお届けがあった。内容は良く聞きませんでしたけれど、もうこれなんかは真の道を、勇さん自身が踏んでおられるわけ何ですね。
自分がおかげを受けたことを一生懸命に伝えたち。しかもその相手に話されたことは、真の道をもう踏んでおられるわけです。しかも今度は、相手がそれによって助かり、はーそうだなぁとこう、まぁ例えばおかげ頂いたら、もう人へ伝えて、真の信心をさせるのが神へのお礼ぞと。
神様へのもうお礼にもなっているわけなんです。ね、ですが、そのここんところまでは何時もまぁ繰り返し頂くわけなんですけども、神になるのぞと。神になりても、神より上になるとは思うなというところを、今日はまぁ今まで頂かなかった角度から頂いたんですね。
そして、その今日頂いたところを頂きますとですね、はー私共はこう、何時、本当に神様よりも上になっておるようなことが何時もあるんだなぁということを実感しましたね。これはね、今日朝のお話には申しませんでしたけれども、ある方が、あるもうそりゃあの大変難しい人間関係。ある人との事件ことでした。
それでもう一生懸命に親子でお願いをなさって、いよいよその事件の解決のためにですね、お繰り合わせを願っておいでられたんです。ところがもう向こうは、そのもう、側にも寄せ付けんといったような状態だったんですね。
ところが心に金光様を一生懸命念じならがですね、とにかくその二人とこう、向かい合って話を始めたんですね。ところがその話がですね、もうどうしてこんな話が自分の口から出るじゃろうかというごたるその、自分なり感心するように良いお話が出たっちいうんです。
ところがです、話のしまいよる頃にはもう相手がね、ほとほとと感心してですね、周囲におったその人のご主人になる人までがですね、本当にあなたの言われる通りですというてね、円満に解決したんですよ。
それでそのあくる日お礼に出てみえましてからですね、もうそれこそおかげ頂きました。までは良かったんですよね、ところがもう得々としてですね、日頃信心頂いておりましたからこげん、もうそりゃ自分でも、まぁいうならもう豆をまきだすように、その良い話が出たっていうわけなんです。
そこはですね、もういかにも、神様のおかげを頂いてといいよるけれども、私がこういう、(いうべん?)で、私が話しをしたから、向こうが納得したということになったんですね。
ところがそれから、2、3日してですね、又話が元に戻るといったような事件が起こったんですよ。その時初めて気が付かれたんですね。はー本当に神様のおかげで話をさせて頂きながら、頂いておると思いながら、実際あまりにもスムーズにいったもんですから、もう神様な後ろから手伝うて頂いた、自分が主になったおるようなお届けのしぶりなんです。
(一人?)ならもっと極端な話だったでしょうね、きっと。私がおらなかったら、あ話しは、あの問題は解決しておらなかったろう。又、それを聞いた人も、ほんなこてあんたがおってくれたから、解決したと、こういうておられるわけです。話を聞きゃ又事実そうですもん。
これなんかはもう立派に神よりも上になったわけなんです。ね、ですから、例えば私共がこれは言うだけじゃない、するだけのことじゃない。様々の中にです、はー今朝の御理解を頂い、だからそのことにヒントを得てから、今朝の御理解を頂いたんですよ。
ですが、私共がですね、確かにあの神よりも上になるなとは思うなと仰るけれども、その神より上になっておる事がある。そして、次のその時はおかげであるけれども、次のおかげがスムーズになっていないという時にはです、確かにそんなんです。
私共、例えば商売のやり方が良いんだと。ね、私が勉強しとるんだと。私が一生懸命働いておるんだど。だからこうだという風になるとですね、そこまでおかげ頂いておっても、それから先がおかげになってこないですね。
そして、そこから、それをお前の心得違いぞと、間違いぞと次々とお気付けが始まってくる。そして私は、改めて私は、何時もお話をするお話をもう一遍ここで聞いて頂きたい。そして今晩の、壮年部会にですね、その話のどこが焦点になるのかという事などをですね、今日の共励の焦点にされると良いなぁと思うんです。
あの、もう十何年も前でしたかね、栄四郎が小学校の時に、普通なにげなしに、その(ひらいだし?)あれは、私共はあの、読本といったけれども。今のあの、今違いますかね、あの読み方の本にそういう話が出ていたんです。
ある海辺に、年老いた二人の夫婦の漁師があったんですね。来る日も来る日も海に稼ぎに行っては、それがまぁその日の生活の元になるわけなんです。その日もやはり、何時ものように、網を担げておじいさんは漁に出たんです。
ところがその日に限ってですね、その網を打てども、打てども雑魚一匹かかってこないのです。それでおじいさん、もう今日はいよいよ駄目だと。もうこれもう一遍網を下ろしてもしとれんならもうこれで帰ろうと決心して、まぁ網を海に入れたんです。
ね、そして確かに手応えが有ったと思うて、その網を引きますとね、中からその金色に輝く魚が網にかかっておるのです。しかも不思議なことにね、その金色の魚がね、人間の言葉でおじいさんに話かけるのです。
おじいさん、おじいさん。私をもう一遍海に放して下さい。あなたの願いを叶えてあげます。まぁおじいさんはそれを聞きよって可愛そうになったんです。それで、その放してやろうと、でおじいさん何か願いがないですか。
まぁそういう願いが成就する、しないはまぁ別として、ふっと自分の心に浮かんだ事があるんです。というのは、(出かけ?)にね、もうそれこそ、家とは穴ばかりの小屋のような家で、おばあさんが一着しかない椅子に腰掛けて、割れた水瓶の前に座っておる、その姿を思い出したんです。
それで、あんたがそんなに言うてくれるなら、ね、家の水瓶が割れている。ね、良いその水瓶が欲しいとこう言うわけです。したら魚が、あー、おじいさん(あけない?)ことですよ。帰って御覧なさい、きっときれいな水瓶がちゃんと家にはあるでしょうと言うて魚は海に帰っていった。
不思議なことがあるもんだと、家に帰って見るとそれこそ不思議なことにおばあさんの前に座っておるその水瓶がです、見事な水瓶なんです。ですからその(話し?)をおばあさんに話しますとおばあさんが申しました。
おじいさん、あなたばかりはもう本当に馬鹿ね(意欲?)がないですね。どうして、ね、このようなね、吹けば倒れるような家に住んでおるんですから、立派なお家が欲しいと何故言わなかったかというわけなんです。
言われてみればそれもそうだ、と思うて又明くる日、漁にやって来たんです。するとやはりその黄色の魚が船辺にやって来て、おじいさんこんにちは。昨日はどうも有り難うとお礼を言いながら、どうでしたか水瓶があったでしょう。
あった、あった、ちゃんと水瓶がね、見事な水瓶が出てきたけれども、家のおばあさんがこういうんですよというて話すと、その魚がですね、おじいさん(あけない?)事ですよ。家に帰ってごらんなさい、家にはもう見事な、それこそ金殿玉楼のようなお家が建っておるでしょうと言うた。そうですか、それではお願いしますというて、帰る頃にふっとその気が付きますと、今ままで鏡のように和ぎであったその海の水が、(さだ波?)がたっておった。
帰ってそのことを、おばあさんに申しますと、確かに魚がいうたようにそれこそ、お城のようなお家におばあさんが住んでおる、それを見て驚いたわけです。ところがおばあさんがですね。もういよいよおじいさんあなたは馬鹿ですねと。もう何と欲のないおじいさんでしょう。家ばっかり立派になってどうします、これに沢山の召使いがいなければ、とこういうわけなんです。
ですからそれをそのまま又、明くる日漁に出て魚にその事を伝えますと、魚がです、おじいさんそれは気安いことですよと。帰って御覧なさいきっと沢山の召使いがお宅のお家にはおることでしょうと、というて魚は別れていった。
今まで(さだ波?)であったその海の水がですね、少しこう荒い波になっておった。波が段々荒くなって来た。さぁ帰ろうと言うて帰らせてもらうと、沢山な召使いに(かしづかれた?)そのおばあさんがね、まるきり女王様のように君臨していたというのです。
ね、又おばあさんが、おじいさんに申しました。おじいさん、どんなに家が立派であっても、沢山の召使いがおっても、沢山のお金がなしにどういたします。沢山のお金を明日はその魚に言うて下さい、頼んで下さいというのです。
ね、そのことを又、翌日魚に頼みますと、おじいさんそれは(わけない?)事ですよというて、引き受けてくれた。それこそ、唸るような黄金の中に、おばあさんが埋まるようにしておった事は、もう事実でした。
沢山のお金の中に、そのおばあさんが。沢山の召使いに(かしずかえ?)ながら、それこそ女王様のようにしておった、その姿にいよいよおじいさんは驚いてしまうばっかりです。ところがですね、帰りがけに気が付いたことはですね、何か遠くの方でね、この海鳴りが聞こえてまいりました。海が少し黒ずんでまいりました。はーこれはしけだなぁ、と思いながら帰ったというのです。
そのおばあさんが、おじいさんに又命令するように申しました。おじいさん、そういう素晴らしい魚がおるなら、その魚を今度は生け捕りにしてらっしゃい。そしてそれを自分の家来にしたら、どんなに素晴らしいことになるか分かりません。どうぞその家来、その金の魚に、私の家来になるように言うて下さいと言うのです。
おじいさんは、そのことを又魚に伝えました。今まで黒ずんでおった、いや遠くで海鳴りがしておったと思うておった海がです、途端に荒れ狂うてまいりました。ね、魚に申しましたら、魚はね、その時には返事もしませんでした。
魚の鰭で(ふなびり?)をパチッと叩いただけで、また海の中に消えていったというのです。(こうほんてい?)で帰らせて頂いた。おじいさんの前には、それこそ昔の破れた家の中に、おばあさんが一人しょんぼりと割れ瓶の前に座っておったというんです。
私はその話しをですね、あの読んだ時に、もうこの話しを何時も私はするわけですけれどもね、信心させて頂く者がね、今朝の御理解の神より上になるなと思うなというところをです、ここんところをもう一遍深く分からなければいけないということなんです。
ね、これ一つ頂きゃ、ここさえ助けてもらえばと、確かに助けてもらうのです。けれども、人間にはやはり限りない浴があります。信心も出来んのに、次々と、そしてです、私共はこの話しの中からね、何処を大体頂くべきかと。
ね、この話しの何処が大体私共が頂かなければならんのか、ということをですね、改めて頂くと、私共愕然とするほどにです、はーここ、これ、ここに気が付かなかったと。ここに神よりも上になっておるような心持があったことに気付かせて頂いたらです、私はいよいよ、今日の朝の御理解がね、もっと生き生きとして来ると思うんです。
今日のお話の焦点はその辺に置かれたらどうでしょうか。どうぞ。
梶原 佳行